
今日はベトナム留学やベトナムに関する記事ではないのですが、僕自身が大好きな歴史の事で、硫黄島の戦いから学ぶ「留学〜生きる事の本質」という内容を書いていきたいと思います。
最初に申し上げますが、かなり感情論的な内容になります笑
昨夜ヤフーニュースを読んでいると「硫黄島の遺骨探索を本格着手、来春から新型レーダー投入」という記事がありました。
硫黄島に眠る旧日本軍の遺骨探索を、本格的に始めるというニュースなのですが
この記事を読んだ時に物凄く目頭が熱くなり、込み上げてくるものがありました。
当時の連合国軍が硫黄島を占領した後に、1万人以上にのぼる旧日本軍の遺骨が残る中で、その遺骨の上に滑走路を敷いてしまったのです。
その為に、この滑走路の下にはまだ1万人にも及ぶ方々の遺骨が残っているとも言われており
僕自身は日本の為に命をかけて戦ってくださった方々に、再び日本本土の地を踏んでいただきたと強く願っています。
その為にも一刻も早く日本政府には硫黄島に眠る遺骨を回収していただきたいです。
皆さん硫黄島の戦いをご存知でしょうか?!
硫黄島の戦いとは、大日本帝国の小笠原兵団が大量に押し寄せる連合国を相手に、物凄く熾烈の戦いを繰り広げた激戦地なのですが、この硫黄島の戦いこそが、今の日本を作り上げたと僕は考えております
硫黄島で指揮を取った栗林忠道中将の教えこそ、このベトナム留学ドットコムの原点になっており、この記事をお読みのアナタに命の大切さと、挑戦できる事の喜びをお伝えしたいと思います。
栗林忠道中将って誰?
大日本帝国の陸軍中将で、硫黄島の戦いの指揮官です。
栗林自身は若い頃にアメリカに留学をして、アメリカの国力を知っており、最初からアメリカに勝てないと分かっていた帝国軍人なのですが。
アメリカに多くの友人がいる栗林は、時運の流れに従いアメリカと戦う事になります。
この栗林率いる守備隊が、5倍以上の戦力を誇る連合国に大損害を与えて、硫黄島に立ちはだかったのです。
どんなに辛い状況下でも決して諦めない、ただ精神論ではなく、物理的合理性の必要性を説き、5日で陥落すると言われた硫黄島を35日間も守り抜いた陸軍中将です。
その為にアメリカの太平洋軍が1番尊敬する帝国軍人が、栗林忠道だという噂があるくらい優秀な方でした。
栗林中将の言葉
【1日でも長く生きよう、確かに我々の敗北は決定的だが、もしこの硫黄島を連合国に取られてしまえば、日本本土が爆撃されてしまう。
しかし我々が1日でも長く生きて戦う事で、日本本土への爆撃が遅れ、その間に多くの子供達が疎開できる。
我々が1日でも長く生きて戦う事で助かる命がたくさんある。
だから我々が生きる1日には物凄い価値があるのだ】
死に行くと分かっていても、死を決して無駄にしない、必ずや次の世代にバトンを渡す。このような想いで栗林中将は硫黄島で戦われました。
このブログでも度々書いておりますが、僕自身は本当に辛酸を嘗めた人生を歩んできており、もはや人生において飛車角を落とされて、ほぼ摘まれている状況下です。
ただ硫黄島から多くの戦略を学び、僕自身も不可能に挑戦をしています。
絶対に勝てないと分かっていても決して諦めない
先程も述べましたが、硫黄島に置ける栗林の状況は最悪でした。
連合国軍の戦力は5倍以上の職業軍人です。しかし栗林率いる小笠原兵団は赤紙(召集令状)によって集められた、寄せ集めの素人軍隊で、平均年齢も高かったとの事です。
その為に栗林は日本連合艦隊に援軍的なサポートを求めようと提案をするのですが、部下から想定外の事を知らされるのです・・・
大本営は陸軍中将にまで戦局を伝えていませんでした
そもそもミッドウェイ海戦で空母を4隻失った事ですら、海軍は陸軍に内緒にしており、陸海軍がお互いに協力できていないにも関わらず、無謀な戦争をしていたのです。
皆さん硫黄島の場所を確認してみてください・・・・
地図をみて分かる通り、硫黄島は東京から南へ約1200キロも離れており、まさに絶海の孤島なのです。
そこに11万人もの連合国軍が押し寄せてくるのですが、まともに戦っても勝機はありませんよね?!
しかし日本にいる子供達の未来の為に、栗林は1日でもこの硫黄島を守らなければなりません、そこで栗林は異様な陣形を築いていきます。
僕のベトナムで迎え撃つ作戦の元となった地下壕による迎撃戦
このブログでも教育も資本主義で親から支援を受けれる人達が強く、金銭的に苦しい人達は勉強においてもかなり不利になると発信をしています。
やはりお金がない人達は自分の時間をアルバイトなどに時間を使わなければなりません。
しかし僕は年間学費20万円の大学に進学する事で金銭的ストレスを避けて、余ったお金をオンライン授業などに投資する事で能力を得る作戦を取りました。
僕はマルチリンガルの能力で周りと勝負をしていこうと考えたのも、この硫黄島から学び、不可能をどうやって可能に変えていくのか?
栗林の考え方が大きく影響しているかもしれません。
水際作戦から地下壕構築へ
これまでの防衛戦は水際作戦というものが常識的でした。
水際作戦とは海岸沿いにトーチカを築いて、敵の上陸を阻止する作戦です。
しかし栗林は水際作戦を止めて、島の奥地に地下壕(塹壕)を構築する作戦をとりました。
この写真ような地下壕を全長18キロに渡って築いていったのですが、昼間は40度にもなる硫黄島で、この洞窟の中はまさに灼熱地獄だったとの事です。
飲み水は直ぐにお湯になり、穴を掘る作業も1人10分が限界だったと言われる中で、このように18キロの地下壕を築いた先人達は本当に凄いの言葉しかありません。
日本本土を守る為に戦ってくださった方々に、再び日本本土の地を踏んで頂きたいと心の底から思います。
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死ぬ事を美化するな、1日でも長く生きるんだ・次の世代の為にも
帝国陸海軍は神風特別攻撃隊や1億総特攻、バンザイ突撃など自分の身を犠牲にしてでも国家の為に戦えという方針でした。
しかしこの栗林中将は「死ぬ事は絶対に許さない、我々が生きる事に価値がある」と必死に軍隊に説いていきます。
その有名な言葉があります・・・・1分10秒あたりからの台詞です。
諸君・・・いよいよ我等の真価が問われる時がきた
日本帝国軍の一員として、誇りを持って戦ってくれる事と信ずる
この硫黄島は、日本における最重要拠点である
もしこの島が敵の手に渡れば、ここは爆撃の拠点となり
敵はこの地から、本土へと攻撃をせしめんとする
本土のため、祖国のため、我々は最後の一兵になろうとも
この島で敵を食いとどめることが責務である
各々、10人の敵を倒すまでは死ぬことは禁ずる
生きて、再び祖国の地を踏めること無きものと覚悟せよ
矛は常に、諸士の先頭に在り。
栗林中将は無理だと分かっていても、諦めずやるしかないと語っており
僕自身も貧乏でまともな教育を受けてこれませんでした。
もはやどうしようもない状況下なのですが、自分自身がこの身を切って、年間学費が20万円のベトナムに進学をして、この情報をネット空間を通して日本中に広める事で、リスタートを切りたい社会人の人達が立ち上がるかもしれない。
金銭的な理由で進学ができない人達のヒントになるかもしれないと信じて
このようにブログを書いています。


5日間で陥落すると言われていた硫黄島ですが
栗林率いる守備隊が猛烈の戦いを繰り広げて、35日間も守り抜いて見せました。
それに戦死傷者の数では連合国軍の方が、日本軍よりも上回るという事も起こっています。
未来の我々の為に戦ってくださった過去の方々に感謝しても、しきれない想いがありますので、このようにブログに書いて多くの方にお伝えしたいと思っています。
最後に
この硫黄島に参加した人にはオリンピックの金メダリストの西竹一という方がいました。
ロサンゼルス・オリンピックの金メダリストの西竹一、その人気はアメリカでも広がり、ロサンゼルスの名誉市民にまで選ばれるほどでした。
しかし自身が金メダルを取ったアメリカ、そのアメリカに戦争という事で戦いを挑まなきゃいけない状況になり、硫黄島で戦死をされました。
市丸利之助という方が当時のアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙も物凄く有名です。
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越してこれを村上治重大尉に渡した。
村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。
『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。
それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
僕は戦争を美化をしている訳ではありません。
ただ当時は世界中が帝国主義時代で、日本も物凄く苦しい状況下にありました。
戦えば亡国、戦わなくても亡国になってしまう運命になった当時の状況下で、一生懸命に日本の国益と繁栄を守る為に戦ってくださった英雄達です。
我々が感謝し、黙祷を捧げないと、この英霊達も浮かばれません・・・
遺骨が日本に戻ってきたら、「本当に国家の為にありがとうございました」と伝えて
手を合わせたいと僕は思っています。
また外交や国際情勢、歴史の事なども記事にしていきたいと思います。
また更新しますので、よろしくお願い致します。